初めて自担からファンサをもらった記録

初めて自担からファンサをもらった時のことを、後の自分のために残そうと思う。

 

2021年8月。

連日やっている夏の公演で、自分にとっては2回目の公演。

 

1回目がアリーナ3列目だったので全く期待せず臨んだが、

まさかの最前を自名義で当ててしまう。

 

最前自体も初めてで、開演までソワソワが止まらない。

始まったらいよいよ近すぎて死ぬ。3Dで死ぬ。恐れ多すぎて終始後ろにのけぞる感じで見てた。

そして生で見るジャニーズってこんなにかっこいいんだ!って、シンプルに驚いた。

 

最前の何がすごいって、

①まず、「今、目合ったよね?」「私にファンサくれたよね?」とか迷うことなく、「私だ!!!」って確信できること。

最初の登場の時点で0ズレの位置だったから、開始1秒で名前うちわを認識してくれた。これも2メートルとかそこらの位置に自担がいるから確信もてる。そこがすごい。普通だったら、よっぽど特殊なファンサうちわじゃない限り、私だよね…?となりがちだし、それでヲタク同士もめることもあると思うのだけど、最前だとそんな迷いはない。当たり前だけど、改めてそこがすごいと思った。

 

②自担と自分だけの会話が生まれること。

最前だからうちわの内容は基本自担にしか見られない。
(厳密には横からのぞきこむことはできる。ただ2列目以降だったら前のお客さん振り返られたりなど他の人からも見えやすい)

なので、カンペを見せたときの反応はほかの人には理解されず、その時間だけ自担と自分にしか分からない時間が生まれること。これは本当にすごいと思った。

 

今回の公演のファンサのタイミングは2~3回。

カンペうちわ何種類か用意してたので、ファンサタイムごと違うカンペを見せ、毎回応えてくれる自担…アイドルの鏡すぎる…

 

ファンサをもらうことに関しても以下、思ったこと。

①自担のボーダーラインを超えたと思えるから、自己肯定感が爆上がりする

どういうことか言うと、世の中には色々なファンがいるわけで…。とっても失礼だけど、マナーを守らないファン、基本的な身だしなみが整っていないファンetc..。色んなファンをアイドルは見てきているのだと思う。そんな中で自分にファンサをくれたってことは、そういう自担の中でのボーダーライン(俗にいうファンサ基準?)を満たしたファンなんだと、なんだか自信を持てるようになった。つまり、自己肯定感も上がって毎日が最高に楽しくなる(大げさ)。

 

②自担って友達だっけ…?と距離感がバグる。

私が出したカンペが質問系のカンペだったからかもしれないが、自担が”普通に”フランクに返してくれた感じがして、それまでは一方的に想いを伝えるだけで向こうからは答えが返ってこないものと無意識に認識してたためか、「あれ…?友達だったっけ…?」と距離感がバグってしまった。

とにかくファンサ貰えたことがうれしすぎてファンサをくれた瞬間を頭の中で何回も何回も反芻し、しばらくどこかフワフワした毎日を過ごした。

 

キンプリの岸君が好きで、割とガッツな友達が岸君を好きになったきっかけがEXでファンサをもらったことだと言っていたけど、ファンサにはそれぐらいの力があるなと、

自分がファンサをもらってからやっと分かった。

割と長いジャニヲタ人生、ファンサはなんてもらわなくても楽しいとか強がってたけどファンサもらえたら本当に嬉しい!!

 

これからも人生狂わない程度にファンサもらえるといいな。

NFTに関する考察

エンタメ業界に従事する一社会人として知っておかなきゃいけないNFT。

ブロックチェーンのことすらよく分かっていない私が語るべきでないと思うが、

インプットしているだけでは本当の理解につながらないと思うので、

アウトプットの場としてこのブログに残していきたい。

 

<参考>

■『NFTの教科書』

amazonリンク

 

■NFTNavi

nftnavi.net

 

現時点で理解していること (2022/4/7現在)

・NFTはエンタメを広める事には向かない。

ヲタクの「所有欲」をあおることで莫大な利益を生む可能性は大いにあるが、

所有を可能にすることでレアリティが高まり価値が上がっていくという仕組みのため、

多くの人にエンタメを届けるためのツールではない。

その意味で既存のストリーミングサービスとは全く性質が異なる。

 

・デジタルの産物も著作権の対象であるため、NFTアートも著作権の対象になりうる

 

メタバースの注目したい点:

①国を超えてあらゆる人がミートアップ可能な点

②DAO:一つのミッションのもとに共同体が成立する。主体管理者がいない。
主権国家体制以来の共同体・組織の在り方を根本から覆す点で面白い

 

 

映画「ひらいて」感想 ※ネタバレ有

10/22公開 映画「ひらいて」。10/23の舞台挨拶中継付きを観た。

まず前提として私は作間くんが好きで、映画出演を知ってから原作を2~3回読んでいる。奥深い作品なので2~3回読んでも読み切れたという自信はないが、ストーリーや印象的なセリフは頭に入っていたうえで映画を観た。

また、10/4の完成披露舞台挨拶も参加したため、これまで2回観たこととなる。

 

まず全体の感想として、映画の方が「愛⇔たとえ」の関係よりも「愛⇔美雪」の関係が色濃く描かれているなと感じた。

映画は、美雪が朝の教室で、愛宛の手紙を愛の机に忍ばせるところから始まる。また、文化祭の演技に向けた練習のシーンでも、原作ではたとえと美雪が付き合っていることを知ったうえで愛は美雪を目で追い、具合が悪くなったことに気づくが、映画では、たとえと美雪が付き合っていることを知らないにもかかわらず、愛は美雪を見つけ、助ける。そして映画の最後は、愛が美雪の教室に駆け込み、「また一緒に寝ようね」とささやくところで終わる。

首藤凛監督は舞台挨拶などで「私にとって美雪は大好きで憧れの女の子」と常々仰っていた。そのため監督は、美雪の愛に酷いことをされてもなお、愛に心をひらき・許すという美雪の心の広さや、愛との心の繋がりに重きを置きたかったのかなと考えた。また、愛も愛で、たとえを経由した美雪への関心だけではなく、ジュースを飲ませるシーンにみられるように、たとえを通さずとも元々、美雪になんらかの特別な感情を持っていたのでは?と思った。

「また一緒に寝ようね」というのは、美雪が愛に送ってくれた手紙に対して、一見挑発的な発言とも言えるが、愛なりの美雪への愛情表現なのではと思う。

 

また映画全体を通して思ったのは、映画の中の作間くんはたとえくんでしかなかったけれど、作間くんにしかできない「たとえ」になっていたなということ。

原作でたとえが「貧しい笑顔だな」と愛を突き放すセリフが印象的だが、映画では「貧しい笑顔だね」と語尾が変わっていた。語尾だけじゃなくて、たとえが愛に向けるまなざしも哀れみを含んでいた。

またたとえが愛を許すシーンも原作と映画で異なり、ここにもたとえの温かさの違いが表れていた気がする。原作ではたとえが愛の頭に手を置き、「お前も(東京に?)一緒に来い」と言うが、映画では、折り鶴の作品が飾られた教室で愛とたとえが話し、そのあと愛の頬をたとえが両手で覆う。映像として美しいものに仕上げるための演出かもしれないが、たとえが愛を親密に感じていることが映画の方が色濃く表現されていた気がした。

 

そのほか細かい感想。

・作間くんがいつかの雑誌で「クランクアップ後に別撮りでアフレコを撮ったら全然違う自分になっていて、短い期間でも成長を感じた」というところ。どこがアフレコなのかな~と思ったが、夜の教室に愛がたとえを呼び出すシーンの、引きの画のところかなと思った。たとえが愛に怒りを表すシーンだから、もしアフレコなら作間くんとしても非常に難しかっただろうなと。(全然違和感はなかったけれど)

・なぜ映画で急にたとえの実家がかまぼこ屋になったのか気になる。

・原作の「鶴を折る」・「祈る」の意味の含ませ方や、聖書を愛がひも解くシーンが割と好きだったので、映画ではそれらがあんまり表れてなくて少々悲しかった(120分に収めるとなったら難しいのは重々承知)

・原作では塾の友達の多田くんやミカとの関係はさらっと前半でしか描かれていない印象だけど、映画ではちょくちょくセフレとしての彼らが描かれている。これが何を意味しているか観ただけではあんまり理解できなかったけど、首藤凛監督がインタビューで「身体の関係から始まることをネガティブととらえる風潮があるが、それらを変えたい」と仰っていたことが関係しているのかと。愛と美雪は身体の関係から始まるし、愛が屋上にいるシーンで、多田くんとミカがセフレの関係にあることを愛は「いいんじゃない」と言う。最初観たときは、愛が自暴自棄になっていてそんなことどうでもいいから「いいんじゃない」といったのかと思ったけれど、「別に身体の関係から始まってもいいじゃん」という首藤凛監督なりのメッセージなのかなと思った。

 

とにかく映画もまた観たいし、原作も読み返したい。

原作→映画→原作→映画の無限ループが楽しいので、何回も劇場に足を運ぼうと思っている。

作間くんをきっかけに知った作品だけど、作品自体にのめり込めていることがとても嬉しいし、作間くんがこの作品に出演していること・そして初めての映画がこの作品ということも嬉しい。

また思い浮かんだら感想追記します。

 

夢が叶った日

7月17日。

運命の電話が鳴った。少し焦げたパンケーキを食べていたときだった。

 

終わった時点で8割型ダメだと思っていたので、何の連絡かと不思議に思うくらいだった。

 

電話をもらって結果を知って、これは夢かと本気で疑った。信じられなかった。

すぐに友達に電話してもらって、現実であることを確かめた。

 

うれしくてうれしくて、家族や友人、お世話になった人にすぐ報告した。

 

だが人間とは不思議なもので、うれしい気持ちと同時に、ものすごい強烈な不安を感じた。

うれしい気持ちと不安な気持ちは表裏一体なのだとその時学んだ。

今はもう、どちらの気持ちもピーク時より落ち着いて、普通に日々を暮らしている。

 

夢をつかむ戦いは思ったよりも自分にストレスを与えていたようで、結果を知って安心したとたん体調が悪化した。

まず、結果を知った数時間後、熱が出た。

そしてその後の数日間、胃が荒れた。食欲はあるが食べると胃がキューキューして、腸の調子も悪かった。

心と体は繋がっているのだと学んだ。

 

自分には無理だと思っていたことがいざ現実になり、しばらくは虚無に襲われた。

長い間目標にしていたことが果たされると、何をすればよいのかわからなくなる。

今まで常に高い目標を掲げて、それを達成するために奮闘して、達成して、次の目標に向かってまた頑張るという日々を送ってきた。

だからこそ自分でも信じられないくらいの目標を達成できたと思うが、勉強とか就活とか、いわゆるちゃんとした目標を達成することに縛られて生きるのは苦しいかもしれない。

 

自己実現における大きな目標がひとまず達成された今、家族や友人をもっと大切にしたいと本気で思うようになった。

数年以内には家族を海外旅行に連れていきたいし、毎日、家族とのつながりを感じていきていきたい。

いつも応援してくれる友人には感謝しかないし、楽しいことや辛いこと、思い出を彩れる友人をもっと大切にしていこうと思う。

 

次はそれを目標にして生きる。

 

 

 

怠けてるんじゃなくて、頑張らないを選んだだけ

最近のわたしは今までのわたしに言わせれば怠けてるんだと思う。

 

わたしは何か目標をもってそれに向かって頑張ることを得意としてきた。

良くも悪くも「真面目」と形容される人間だ。

 

でもそれって、真面目が美とされる環境の中でしか輝かなくて、そうでない環境ではただ、面白くない人でしかない。

就活の中でいろんな人に出会い、真面目に頑張ることだけが人としての魅力をつくりだすんじゃないってことを学んだ。

 

今まで自分のなかで、これはダメって切り捨ててきたものを大切にする。

○○しなきゃから自分を切り離す。

 

そんなプロセスの中で、自分がしんどい環境で頑張ることを善としなくてもよくて、

自分が心地よいと思う環境を自ら選択すること。

今この瞬間、楽しさ、熱中、ワクワクを感じられていること。

楽しさで自分の心を満たすこと。

 

そんな人生だっていいじゃないと思った。

自分で自分の幸せを、満足を。

誰にも負けない武器。ハイキュー!!を観て。

最近、ハイキュー!!にドはまりして、アニメ3期分一気に見た。

ジャニヲタ極めてた自分がこんなにアニメにハマるなんて思ってみなかった。

続きが観たいと思えるストーリー展開と、何よりもキャラ達(特に影山飛雄くん)に感謝。

 

ただ、めちゃくちゃ好きだしハマっているのに、実在する人物を推している時に特有の”””自分が貢いだお金が推しの血肉になっている感覚”””が味わえないのがつらい。

外出自粛期間直前にジャンプショップで見かけた影山くんのアクスタに危うく手を出しそうになったが、「これを買ったところで影山くんはいつもより多く肉まんを食べられるわけではないんだ」と思ったらそこで手が止まった。

推しだけを愛し、原作の作者の方・アニメの制作陣・声優さんetc.に感謝できないということは、まだまだ自分が二次元を愛する者として未熟な証拠なのだろうか。

 

まぁそれは置いておいて、ハイキュー!!を観ているとキャラ一人ひとりに「誰にも負けない武器」が備わっていると感じる。

日向の運動神経、影山の正確なトス、月島の冷静な判断力などである。

 

創造されたストーリー上の出来事を現実に持ち込むこと自体、ナンセンスなのかもしれないが、自分はそのような「誰にも負けない武器」を持っているのかと疑問に思った。

就活でよく聞かれる「誰にも負けないことは何ですか」という質問。

そう聞かれて自分はなんて答えるだろうか。

 

そもそも実際問題、誰にも負けないことを自身満々にこれですって答えられる人自体少ないと思う。

誰にも負けない武器なんて持たなくても平気で生きられるのだと思う。

 

だけど、誰にも負けないことを持っている人は強い。

自信がある。

だから私も何か誰にも負けない武器を身に着けたい。

 

その為に今持っている武器を磨いてみるところから始めてみようと思う。

 

これまでの就活を振り返って。

就活は夢をつかむプロセス。

憧れのエンタメ業界でのインターンができる機会をいただいてから、そう思えるようになった。

 

大学の同期の友人や1dayインターンなどで出会った他の就活生を見ると、
皆、就活って辛い。できればやりたくない。と思っている人が多いように感じる。

 

私もそうだった。

志望していない業界の企業を受けるときには、志望動機なんかなーんも思いつかなくて、嘘で塗り固めた志望動機を覚えて選考に臨んだ。

 

そんな中、あまり志望していないが、入ってもいいかなと思える会社の内定をいただいた。

その時、改めてこう思った。

 

何のために就活してるんだっけ。

 

私は大学の途中まで公務員を目指していた。

親や教授にも公務員に合っているといわれ、予備校にも入り勉強していた。

 

でも、興味を捨てきれず、エンタメ業界の1dayインターンに参加した。

それが初めてのインターンだったので、全然うまく自己PRができなかった。

そのとき気づいた。

こんなに悔しい想いをするということは、私はこの業界に本気だと。

 

そこから自己分析をしまくり、自身の意志でやりたいこと、人生で成し遂げたいことを本気で考えた。

その結果、やはりエンタメ業界に行きたいと思った。

その夢をつかむために就活しようと思った。

 

今、第一志望の企業の選考中である。

ものすごく緊張するし、不安と恐怖で胸が埋め尽くされている。

 

でもこれは、夢への切符を手にしているということである。

そう思うとワクワクが止まらない。

 

自分の可能性を信じ切って、絶対に夢をつかむ。

就活は夢をつかむプロセスだ。