映画「ひらいて」感想 ※ネタバレ有

10/22公開 映画「ひらいて」。10/23の舞台挨拶中継付きを観た。

まず前提として私は作間くんが好きで、映画出演を知ってから原作を2~3回読んでいる。奥深い作品なので2~3回読んでも読み切れたという自信はないが、ストーリーや印象的なセリフは頭に入っていたうえで映画を観た。

また、10/4の完成披露舞台挨拶も参加したため、これまで2回観たこととなる。

 

まず全体の感想として、映画の方が「愛⇔たとえ」の関係よりも「愛⇔美雪」の関係が色濃く描かれているなと感じた。

映画は、美雪が朝の教室で、愛宛の手紙を愛の机に忍ばせるところから始まる。また、文化祭の演技に向けた練習のシーンでも、原作ではたとえと美雪が付き合っていることを知ったうえで愛は美雪を目で追い、具合が悪くなったことに気づくが、映画では、たとえと美雪が付き合っていることを知らないにもかかわらず、愛は美雪を見つけ、助ける。そして映画の最後は、愛が美雪の教室に駆け込み、「また一緒に寝ようね」とささやくところで終わる。

首藤凛監督は舞台挨拶などで「私にとって美雪は大好きで憧れの女の子」と常々仰っていた。そのため監督は、美雪の愛に酷いことをされてもなお、愛に心をひらき・許すという美雪の心の広さや、愛との心の繋がりに重きを置きたかったのかなと考えた。また、愛も愛で、たとえを経由した美雪への関心だけではなく、ジュースを飲ませるシーンにみられるように、たとえを通さずとも元々、美雪になんらかの特別な感情を持っていたのでは?と思った。

「また一緒に寝ようね」というのは、美雪が愛に送ってくれた手紙に対して、一見挑発的な発言とも言えるが、愛なりの美雪への愛情表現なのではと思う。

 

また映画全体を通して思ったのは、映画の中の作間くんはたとえくんでしかなかったけれど、作間くんにしかできない「たとえ」になっていたなということ。

原作でたとえが「貧しい笑顔だな」と愛を突き放すセリフが印象的だが、映画では「貧しい笑顔だね」と語尾が変わっていた。語尾だけじゃなくて、たとえが愛に向けるまなざしも哀れみを含んでいた。

またたとえが愛を許すシーンも原作と映画で異なり、ここにもたとえの温かさの違いが表れていた気がする。原作ではたとえが愛の頭に手を置き、「お前も(東京に?)一緒に来い」と言うが、映画では、折り鶴の作品が飾られた教室で愛とたとえが話し、そのあと愛の頬をたとえが両手で覆う。映像として美しいものに仕上げるための演出かもしれないが、たとえが愛を親密に感じていることが映画の方が色濃く表現されていた気がした。

 

そのほか細かい感想。

・作間くんがいつかの雑誌で「クランクアップ後に別撮りでアフレコを撮ったら全然違う自分になっていて、短い期間でも成長を感じた」というところ。どこがアフレコなのかな~と思ったが、夜の教室に愛がたとえを呼び出すシーンの、引きの画のところかなと思った。たとえが愛に怒りを表すシーンだから、もしアフレコなら作間くんとしても非常に難しかっただろうなと。(全然違和感はなかったけれど)

・なぜ映画で急にたとえの実家がかまぼこ屋になったのか気になる。

・原作の「鶴を折る」・「祈る」の意味の含ませ方や、聖書を愛がひも解くシーンが割と好きだったので、映画ではそれらがあんまり表れてなくて少々悲しかった(120分に収めるとなったら難しいのは重々承知)

・原作では塾の友達の多田くんやミカとの関係はさらっと前半でしか描かれていない印象だけど、映画ではちょくちょくセフレとしての彼らが描かれている。これが何を意味しているか観ただけではあんまり理解できなかったけど、首藤凛監督がインタビューで「身体の関係から始まることをネガティブととらえる風潮があるが、それらを変えたい」と仰っていたことが関係しているのかと。愛と美雪は身体の関係から始まるし、愛が屋上にいるシーンで、多田くんとミカがセフレの関係にあることを愛は「いいんじゃない」と言う。最初観たときは、愛が自暴自棄になっていてそんなことどうでもいいから「いいんじゃない」といったのかと思ったけれど、「別に身体の関係から始まってもいいじゃん」という首藤凛監督なりのメッセージなのかなと思った。

 

とにかく映画もまた観たいし、原作も読み返したい。

原作→映画→原作→映画の無限ループが楽しいので、何回も劇場に足を運ぼうと思っている。

作間くんをきっかけに知った作品だけど、作品自体にのめり込めていることがとても嬉しいし、作間くんがこの作品に出演していること・そして初めての映画がこの作品ということも嬉しい。

また思い浮かんだら感想追記します。